とってもユニークな土地、立科

よく「立科」と「蓼科」は違う場所なのですか?と聞かれます。実は、どちらも当地のことです。地名表示としては「立科」が正しいのですが、日本百名山のひとつ蓼科山が有名なため、「蓼科」と表記した資料や観光施設も多く、2つの名前を持つこととなったようです。八ケ岳中信高原国定公園内にある風光明美で自然が豊かなところです。 さて、立科には珍しいユニークな特徴があります。まず、当地は山(蓼科山や女神湖周辺)と里(中山道芦田宿付近)に分けられますが、その標高差は実に800Mもあります。そのため産業も、山は観光業、里は農業・畜産業とまったく異なります。 山と里をむすぶ県道で、立科町がもっとも狭くなる個所はわずか54メートル、まるで立てた瓢箪(ひょうたん)のような地形の町ですね。 町全体の人口は約7,800人で、大半は里に住んでいます。山の人口は400人程度ですが、ここは標高1,500メートルもの高さがあります。こんな高い土地に定住している人口としては多分、日本一でしょう。冗談に私達は山岳民族と自称しています。まさに妖精の故郷にふさわしい場所です。 山と里をむすぶ県道で、立科町がもっとも狭くなる個所はわずか54メートル、まるでメ立てた瓢箪(ひょうたん)モのような地形の町ですね。

神秘のパワーゾーン

巷に流行るもの、それはパワースポットです。社会が不確か、気持ちが不安になると人は神秘的なものに魅かれるようです。妖精のふるさと、立科にはもちろんパワースポットがあります。それは、蓼科山と女神湖、そして古代からの遺跡メ鳴石(なるいし)モを結ぶ三角地帯で、パワーゾーンと呼ばれています。この三角地帯を歩くと、大いなるパワーが授けられ運気が向上するといわれています。 女神湖からゴンドラで登る蓼科山のふもとには、諏訪大社から移設された「御柱(おんばしら)」が里帰り建立されています。7年に一度行われる「御柱祭」はその規模の大きさと危険なことで全国的に有名なお祭りです。もともと、御柱は立科の山々から巨木を切り出し、街道を村々の人々が総出で運んだものでした。2010年が例大祭でしたが、諏訪大社の境内に安置されていた古い御柱がお役御免になり、里帰りして当地にあるのです。 この御柱のかたわらに「幸せの鐘」があります。愛し合う二人が一緒にこの鐘を鳴らすと、末長く仲良く暮らすことができるそうです。きっと、女神湖の妖精たちが祝福してくれるのでしょうね。ぜひ、カップルで訪れてください!は多分、日本一でしょう。冗談に私達は山岳民族と自称しています。まさに妖精の故郷にふさわしい場所です。

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鍵引石とカッパの河太郎のおはなし

鍵引石・・・女神湖畔県道40号線に近いところにある石で、雨堺峠を越す旅人が、家族の安全や健康を願い石の上で神様の降臨を願って祈りをささげたと思われます。この頃、女神湖は今の姿ではなく赤沼と呼ばれた川の一部でした。

ここにはカッパの河太郎の伝説があります。むかし、この石にはひとりの子供が腰かけていて、通る人に「かぎ引きしない?」といって、指をかぎにして出すのでした。可愛い顔をした子供でしたからたいがいの旅人は、指をからませて、石の上の子供とかぎ引きを始めました。
ところが、この子供の強いこと!からんだ手を離さずそのまま赤沼の池に引きこんでしまうのです。こうして、子供に池に引きこまれた者が何人になったでしょうか。村人たちは「あの子供に見えるのは、実は赤沼のぬし、河太郎というカッパだ」と言い始めました。
このことを聞いた、諏訪に住む諏訪頼遠(すわよりとう)という力持ちのさむらいが、「よし、おれが退治してやろう」と、馬にまたがり峠を登りました。すると、話に聞いた通り、石の上に可愛い子供がいて、「かぎ引きしない?」といって手を出しました。頼遠は、(ははあ、話通りに出たな!)と思い、「いざ参ろう」といって、馬の上から手をのばし、河太郎の中指にかけてギューと握りしめると同時に、馬に鞭をくれて一気に駆けだしました。
さすがの河太郎も馬に引きずられてはかないません。頼遠に指を握られたまま、石ころだらけの峠道を引きずれられ、あまりの痛さに元のカッパの姿に戻った河太郎は「もうし、命だけはお助け下さい」と馬上の頼遠にたのみました。
そこで頼遠は、馬をとめていいました。「お前はずい分いたずらを働き、人を沼に引きずり込んだそうだが、もう決して悪いことはしないと約束できるか?」河太郎はひざまずき、「もう二度と悪いことはしません。命だけはお助け下さい」とあやまりました。そして、「命を助けてくださるなら、今夜のうちにここを立ち去ります」とたのんだので、頼遠は許してやることとしました。
河太郎はびっこを引きながらトボトボと池の方に戻って行きました。その翌日、村人たちが目を覚ますと赤沼の水がすべてなくなり、和田の宿の山沢に大きな池ができ、この池ではカッパが悪さをすることも無かったそうです。は多分、日本一でしょう。冗談に私達は山岳民族と自称しています。まさに妖精の故郷にふさわしい場所です。

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神どこから運ばれたの?謎の巨石?鳴石(なるいし)

鳴石・・・蓼科山のすそ野、蓼科第二牧場駐車場から20メートルほど奥に入ったところにある鏡餅状に重なった二個の巨石です。昔、風が強く吹けば鳴ったため、このように呼ばれました。この石が鳴るときは、必ず天気が悪くなるといわれています。ある時、石工がこの石を割ろうとして金づちで二つ三つ叩くと山鳴りがして地震が起き、たちまち火の雨が降り、石工はもだえ苦しんで死んでしまいました。この事があってから、強く叩くことはいけないとされています。そっと叩くと鈴のような音がするそうです。
鳴石は大和の王権による東国の制覇が一段落し、大和と東国の交流、東西の交易が盛んになった六?七世紀頃に蓼科の神を祀る祭祀の場として古東山道の交通の要衝、峠道の難所に築かれたものと考えられています。わざわざ別の場所からこれだけ大きな巨石を運んだ古代の人々のエネルギーと信仰心は素晴らしいですね。。

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生きている妖精?ヒメボタル

ホタルはオスが光り、繁殖時期にメスを求めるのですが、ヒメボタルは体が小さいだけにゆっくりと胸の高さほどの高度を林から林へと、ふわふわと飛翔します。その光景は幻想的で、まさに妖精たちの世界です!
ヒメボタルの生存期間はわずか数日。その短い間に次の子孫を残すパートナーを探すのです。なにかあまりにも儚く、可憐な生き物ですね!求愛する時間帯は夜の8時から9時頃です。女神平で、生きている妖精たちに会いに来ませんか。

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古城の道に清水を求めて?笠取峠

最後に、立科町の里の名勝をひとつだけご紹介します。立科町の里である芦田宿は旧中山道69次の内、26番目の宿場町で、芦田川右岸には別名「木の宮城」といわれた芦田城跡があります。旅人はここから塩尻、妻籠宿を経て京に上ったのでした。芦田宿から次の長久保宿までは長い峠道で、夏の暑い季節は疲れと暑さで旅人が思わず笠を取ってしまうので笠取峠と呼ばれたそうです。
徳川幕府は街道沿いに松や杉などを植えさせ、旅を快適にするよう努めましたが芦田宿から笠取峠にかけ今でも約2Kmにわたり松並木が残っています。総本数72本(平成21年現在)の老赤松はいずれも150年から300年以上経たもので、残念ながら枯れた木もありますが往時の中山道をしのばせてくれる景観が楽しめます。
笠取峠に昔、小松屋と呼ぶ茶屋があり、旅人は名物メ三国一の力餅モで疲れを癒し、峠を越えるエネルギーを補給したそうです。また、ここに湧き出ている清水は、金明水といい、現在でも飲用できる名水のひとつです。メ三国一の力餅モは、いまでも町営メ農ん喜村モで購入できます。立科のお土産にひとついかがですか?

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